発達障害の長男の子育ては、とても孤独でした。幼少期は特に孤独に押しつぶされそうになっていましたね。
長男が中2になった現在、子育てに孤独を感じることは「全く」なくなった、と言えます。いつのまにか、孤独を感じていた状態を抜け出していたようです。
今回は、特に長男幼少期の子育てに感じていた「孤独」について、その理由を振り返ってみました。
今まさに、発達障害のお子さんの子育てに孤独を感じている方の参考になれば、うれしいです。
発達障害児の子育てに孤独を感じていた3つの理由【今だからわかること】
幼少期から、どこか他の子とは違っていた長男が発達障害だとわかったのは4歳。それまでも、そのあとも、結構な孤独感を体験してきました。
誰にもわかってもらえないという思い込みによる孤独
発達障害の「特性」を知識として知っている人はとても少ないです。見た目の違いがない発達障害は、知らない人から見ると何が違うのかわからないので理解されにくいのは仕方がないことでしょう。
- 他の子と何かが違う
子供が生まれてから24時間一緒に過ごす親は、「何かが違う」という漠然とした違いを感じ取りますから、その「違い」がはっきりしないうちは、不安となって常に気になってしまうんですよね。
ママ友の「わかる」に対する違和感
公園や保育園、幼稚園、学校などで会うママ友の「わかる~」という言葉。子育ての悩みを話すと、「わかるわかる~、うちもおんなじ」と言われることは多かったと思います。
そう言われたとき、私は「え?明らかに同じじゃないよね?」と変な違和感を感じたのです。
私が話した悩み事は、ママ友の子の様子とは明らかに違う。
もしかしたら、家の中では同じような悩みごとがあるのかもしれませんが、100歩譲っても「何か違う」という違和感はぬぐえなかった。
その後、発達障害がわかったとき、やっぱり違うよね、と思いました。
今でこそ、「人はみな、違う生き物」と思えますが、子育て経験初心者であった当時は、不安でいっぱいで、そんな余裕はありませんでした。
義父母の「何もおかしくない」への違和感
私が漠然と感じていた「何かが違う気がする」という気持ちに対して、義父母は「何もおかしくない、普通だ」と言い張っていました。
しかし、私がいないところでは、私の育て方が悪いから、長男が他の子と違っていて何かがおかしいと言っていたと旦那から聞きました。
義父母であっても(長男の祖父母であっても)理解してくれないんだな、と本心からがっかりしたのを思い出します。
旦那の「お前の接し方が悪い」に対する違和感
義父母からだけではなく、旦那からも、私の育て方が悪い、接し方が悪いと言われていました。発達障害育児、あるあるみたいですが。
一番身近で相談できるはずの旦那は、自分と長男を理解してくれない人になり、信用できない人になっていきました。
当時からワンオペ育児でしたし、何も手伝ってくれなかったのに、と恨みすら感じましたからね。ここが、辛かった孤独への第一歩になったことは間違いないでしょう。
人との比較による孤独
次男が生まれてからは、二人とも保育園に入れなかったので、私も仕事が出来ず、専業主婦でした。
ですので日中は、児童館やサークルに参加してみたり、習い事の体験レッスンを受けてみたり、積極的に過ごしていこうとしていました。
習い事で改めて知る他の子との違い
年少でしたが、幼稚園には入らなかったので、何か長男に合う習い事があればと思い、体験レッスンを受けてみたんですね。
- キッズダンス
- リトミック
- 空手
リトミックと空手は、何をやるのかが全くわからなかったらしく、露頭に迷っている感たっぷりでしたし、ダンスは先生の回りをグルグル回り続けるという、明らかに他の子と違う行動を取り、私自身がどうしていいのかわからなかった体験があります。
当時は周りのお母さんたちの目も、結構痛かったように感じていました。
何かが違う長男を改めて見たことで、やっぱり何か違うな、という思いは増えていきました。
最終的に、習い事は体を動かす系ではなく、突然興味を持った将棋にしました。椅子に座って盤面に向かうだけなので、特別迷惑になるような行動はありませんでした。
公園や児童館でママ友と交流できない孤独
公園や児童館などで、ママ友と交流する機会はありました。
すぐにどこかへ行ってしまう長男ではありましたが、少しずつ顔見知りができ、挨拶をしたり少し話せるくらいのことはありました。
しかし、誰かと一緒にいることで、なぜかどんどん孤独になるという悪のスパイラルにハマっていったんですね。
当時を思い起こせば、様子が違う長男のことを、私が周りの子と比べてしまっていたからでしょう。
きっとそんな長男の様子のことは、他の人は誰も気にしていないと思います。みなさんだって、ご自分のお子さんの事で手一杯ですからね。
幼少期の長男の様子を私が勝手に「何かが違う」と気にし過ぎ、違うことに対し、マイナスのイメージを抱いてしまっていただけのことなのですが、モーレツな孤独感を感じていたことを覚えています。
腹を決めて前に進み続けた孤独
この頃になると、子供のための公園、というより、自分のメンタルを守るための公園選びになっていましたね。精神的にも自分自身をかなり追い詰めてしまっていました。
自分のメンタルを守るために敢えて孤独を選んでいた日々
結局、日中に公園で遊ぶのをやめ、
- 朝7時頃から近所の公園
- 10時頃には人があまりいない別の公園
- 午後からは大きな公園
といったように、公園をはしごするようになりました。
そのうち、人が少ないけど、思い切り遊べそうなところ、より自然の山っぽいところを見つけることができ、はじめから人が少ない場所で遊ばせるようになりました。
その方が楽だったんですね。誰かにからかわれている長男を見なくていいですし、他の人を気にすることなく、長男の好きなように遊ばせることができましたから。
徐々に、誰かにわかってもらいたい、という思いもなくなっていき、長男が精いっぱい生きてくれればそれでいい。と思えるようになってきました。
発達障害の診断が孤独を良しとしてくれた
長男4歳の頃に受けた仮の発達検査(心理士さんによる田中ビネー検査)で、発達障害のグレーゾーンであることを知りました。
当時はまだ、今のように発達障害を知る人は少なく、私も「障害」という言葉にマイナスイメージを持っていました。
それから発達障害の本を読みまくり、インターネットで情報を調べるうちに、長男がマイノリティであることを正面から受け入れられるようになっていきます。
マイノリティな子の子育てなんだから、孤独になるのは当たり前のこと。
- 私はこの子と生きていく
- 社会で食べていける大人に育てる
そう決めた私は、その後、発達障害の勉強と長男の療育、長男と接する人達へ、配慮を求めることに力を注ぐことになります。
集中して勉強することで、孤独を感じる時間はどんど減っていきましたね。
長男が生まれてから、ちょっと遠回りしましたが、腹を決めて孤独になることで、長男のことを受け入れられるようになったと思います。
発達障害児の育児の「孤独」の正体は自分自身の思い込みだった
孤独を感じ、心にポッカリ穴が開いていた頃は、誰も頼る人がいないし、誰にもわかってもらえない思いでいっぱいでした。
長男を受け入れていなかったのは自分なのに、勝手に孤独を感じ、まるで社会に自分たちの居場所がないようにさえ、感じていました。
長男の子育てに対する不安を、単なる「思い込み」であった、と言えるのは、長男が中2になった、今だからこその話。
「他の子と何かが違う」という漠然とした感じ方を、言葉でうまく伝えることは難しい。なぜなら、相手も同じ体験をしていないと、自分の子が他の子と違うかもしれない、という不安を共有できないからです。
無意識で人と違うことをダメだと思い込んでいたから
長男は初めての子供でしたから、育児本や雑誌を参考にしていました。
◯ヶ月や◯歳で何ができる、という横一線で見る発育や成長は、初めての子育てにおける、1つの指標です。
人はそれぞれ違うところがあることは、知識としてわかってはいても、いつの間にか、周りと同じであることに安心感を抱いていたのでしょう。
子供の成長が、マニュアル通りにいくわけがないのに、無意識で人と違うことはダメなんだ、と思い込んでしまっていました。
だから、少しでも何かが違う、と感じてしまうと、焦りを抱いていたんですね。
身近な人に否定される長男と自分を守りたかったから
毎日接する旦那や、比較的会う頻度が高かった義父母からの否定は、精神的にかなりのダメージを受けました。
本来なら協力して子育てをしていくはずの旦那に理解されず、お前の育て方が悪いと否定されることで、私は行き場をなくしたんですね。
私の実父母は真逆で、個性なんだと言い、全面的に受け入れてくれたのですが、実家が遠く、夏休み期間しか帰省できなかっため、孤独であることは変わりませんでした。
旦那にわかってほしい、理解して協力してほしいと相談したり、頼んだりするほど、否定される機会が増える。
いつの間にか、否定されたくなくて、旦那や義父母から長男と自分を守るようになりました。
- 相談しない
- 何か言われてもスルー
- 正面から話し合わない
- できるだけ接点を持たない
こんな感じで、孤独のカラに閉じこもるように入り込んでいきました。
何か違うという感覚が間接的に否定されているような気がしていたから
漠然と感じていた、長男の様子の違い。
それを誰かに話すと、
- そんなことないよ、うちも同じだよ
- 気にし過ぎなんじゃない?
- 男の子なんてそんなものだって
と返ってくる。
本当にそう思っているのかもしれないし、私が不安を感じているから、大丈夫だよ、心配ないよって声をかけてくれていたのだと思います。
しかし、孤独感いっぱいでメンタルが落ちまくっていた私は、間接的に自分の感覚を否定されているように感じてしまってんですね。
そうだね、違うね。と言われたら、やっぱそうだよね、じゃあこうした方がいいのかなって思えたのかもしれない。
周りのせいにしているのではなく、私の思考のサイクルが悪循環していただけのこと。
長男が周りの子と違う、と感じる自分の感覚が違うのか?
と、別の方向に考えてしまったことで、さらにわかってもらえない感が強まり、より深い孤独を感じるようになっていったのですね。
この孤独が、自分の思考と思い込みが作っている妄想だと気づくのは、とっくに孤独を抜け出した何年も後のことになります。
孤独が発達障害の子育てにおいて結果的にメリットになったこと
孤独だった時期を振り返ると、結果メリットになったんだなと思えることがあったので、お話します。
自分の感覚で子供を受け入れるための時間
自分の子供が他の子供と「何か違う」と感じ、その違いが「何なのか」を一歩引いて冷静に把握するためには、いったん、周りの見方や意見がない状態で子供を見ないとわからないですよね。
自分が子供にたいして感じている「何か」をはっきりさせないと、ずっとモヤモヤしたままですから。
- 周りの見方・意見がない状態
- 自分の目と感覚で子供を見る状態
周りの意見をシャットアウトして、子供と一対一で向き合ったとき、初めて、自分の感覚と子供の様子が見えてくる。
自分が感じている漠然な不安は、目の前で生きている子供の何なのか。何かが違うことで、子供は子供じゃなくなってしまうのか。
いや、そんなわけないはないですね。自分が産んだ子供は、自分の大切な子供。
この子が、一人で食べて行けるような大人になるように、親として育てていくのだと、自分にできることは何でもやっていくのだと、改めて決意を固めていけるようになるには、孤独である時間が必須だったな、と思えたんです。
人と同じである必要はないと受け入れるための準備期間
孤独な時間を過ごすことで、
- 人と同じであるとは何なのか
- 人と違うとは何なのか
ということを深く考えるようになりました。
孤独な時間があったことで、明らかに様子が違う自分の子供を受け入れることができたと思います。
子供と自分で生きていく。そういう覚悟が決まったのは、孤独な時間を過ごしたからでしょう。
どうしても孤独は辛いきは周りに相談をしてみた
私は、旦那に助けを求めても、ワンオペ育児は改善されず、寄り添ってもらえることもなかったので、市の相談センター的なところをフルで使いました。
- 大丈夫だよ
- 一人じゃないよ
みたいな言葉は、本当に孤独を感じてしまっているときにかけてもらったとしても、信じられなかったですね。
全然大丈夫じゃないし、結局は一人じゃん、って思ってました。素直じゃないですよね。
しかし、例え、人の好意を素直に感じられなくても、誰かしら話せる人がいるのは気が紛れる時間を持てたので、結果、よかったと思っています。
振り返り:今なら「辛い孤独時期」だったと思えるが当時は本当にキツかった
子育てにおける不安や孤独は、子供を守るための親のデフォルト装備なのかもしれない。
ちょっと強引かもしれませんが、そんな風に考えることができたなら、孤独を感じてしまうことも悪くないかもしれませんね。
この時代、とかく情報量が多くなり過ぎますし、日本にいると社会の目が気になるのも当然です。私世代、そんな風に育ってきていますから。
目の前にいる子供のありのままを見ることが大切なのに、周りと違うことを恐れていた私。
やり直せるなら、もう一度、長男が生まれるところに戻りたい。何度もそう思いました。
今なら、周り子とどんなに様子が違っていても、そのままの長男を受け入れ、抱きしめてあげられる。
言葉がちゃんと話せなくても、好きなだけグルグル回っても、楽しそうな長男をほほえましく見ていられる。
自分の子供は発達障害なんです、こんなことに困っているけど、こんなところがすごくてね、あなたのお子さんは、どんな感じ?ってママ友とおしゃべりができる。
でももう戻れないんですよね。
ずっと発達障害の勉強をしてきて、子育てに関することを勉強してきて思うことは、知れば知るほどに後戻りできないことを後悔するということ。
それは、困ってきたから、何かいい方法はないかと求めてきたから、新たな情報をキャッチできる感度を持てているだけなのですが、今ならできることを、過去の私は知らなかったからできなかった。
子育てにおいての孤独は本当にキツイ。今、まさに、発達障害のお子さんを育てていて孤独を感じ、辛いと感じているなら、その孤独、きっと本当に辛いと思います。
どうにもならない、誰に当たることもできない思いに、明日の生きる気力さえ奪われてしまっているのではないでしょうか。
その孤独は、子供の何を守ろうとしているのか、そんな点に目を向けてみたら、少しだけ光が見えるかもしれません。ちょっとだけ先の進むべき方向が見えてるくかもしれません。
そんな感じで、孤独であることを受け入れてみることでわかる何かをつかんでいただけたら、うれしいです。